キェルケゴール協会では会誌『新キェルケゴール研究』を年1回刊行しています。ご購入を希望の方は、事務局までご連絡ください。
論文はJ-Stageにも公開されています。
第21号(2023)
研究論文
・鹿住輝之「ハイベアの「権威」論文について:キルケゴールの政治観との関係で」
・荻野倫夫「『日誌』の選択的研究─絶えず「宣教師としてのキェルケゴール」という観点を省みつつ─」
・松房玲加「キルケゴールの段階説の真意は何か」
2023年度キェルケゴール協会第23回学術大会シンポジウム
・鈴木祐丞「新時代のキェルケゴール研究」(報告)
・木瀬康太「キェルケゴールのイロニー論の現代的意義:「人格」概念の再生に向けて」
・後藤英樹「キェルケゴールの『十八箇の建徳的講話』の音楽的構造について」
※PDFファイル(全文)はこちらです。
※個別のファイルはJ-Stageで公開中です。
第21号(2023)
・目次
・中里巧「キェルケゴールの「ヤコブの手紙」解釈とその思想」
・南コニー「サルトルの状況演劇におけるキルケゴールの
「反復」について」
・小松優也「キェルケゴールにおける弁証法の三形態
─『哲学的断片』から解釈する弁証法の対話性─」
・辻内宣博「トマス・アクィナスにおける絶望と罪の理論」
・桝形公也訳「ウィギリウス・ハウフニエンシス、ヨハネス・クリマクスそして「本来のキェルケゴール」」
・Poul Lübcke, Vigilius Haufniensis, Anti-Climacus og “den egentlige Kierkegaard”
・Abstract: S. Kierkegaard’s Interpretation and Thought of Jacob’s letter in The New Testament
・Abstract: Kierkegaard’s “Repetition” in Sartre’s Theater of Situation
・Abstract: Kierkegaards Drei Formen der Dialektik: die Dialogizität der Dialektik interpretiert aus dem Werk „Philosophische Brocken”
・奥付
第20号(2022)
・目次
・木瀬康太「行き過ぎた「反省」を撤収させるということ―キェルケゴールによるハイベア批判と「教養」の問題をめぐって―」
・河上正秀「キルケゴール実存思想との出会い」
・谷塚巌訳「キェルケゴールの書簡―その3―」
・Abstract: The Withdrawal an Excessive ‘Reflection’ : Kierkegaard’s Critique of Johan Ludvig Heiberg and the Problem of ‘Culture’
・Abstract: Encounter with S. Kierkegaard’s existential thought
・奥付
第19号(2021)
・目次
・Yusuke SUZUKI, “Kierkegaard in Wittgenstein’s Tractatus“
・鹿住輝之「ハンス・ラッセン・マーテンセンにおける「受肉」の教義について:『哲学的断片』におけるキルケゴールの歴史理解との関係で」
・谷塚巌訳「キェルケゴールの書簡―その2―」
・Abstract: Kierkegaard in Wittgenstein’s Tractatus
・Abstract: Hans Lassen Martensen’s Doctrine of Incarnation examined in relation to Kierkegarrd’s Understanding of History in
Philosophical Fragments
・奥付
・Contents
第18号(2020)
- 目次
- 後藤英樹「キェルケゴールの建徳的講話における音楽的構造について」
- 谷塚巌訳「キェルケゴールの書簡―その1―」
- パトリック・ストークス(的場敦也訳)「キェルケゴールのインターネット批判」
- Abstract
第17号(2019)
- 馬場翔太郎「『おそれとおののき』における殺人の意味」
- 中村元紀「ヤスパースから見たキェルケゴール―自己固有の真理を探究する誠実な人物として―」
- 木瀬康太「キェルケゴールにおける「直接性」と「反省」」
- 須藤孝也「キェルケゴール協会2018年大会シンポジウム「ルター、キルケゴール、カール・バルトにおける聖書と教会」(報告)」
- 阿部善彦「ルターにおける自由の問題」
- 鹿住輝之「最初に恩寵がある:キルケゴールにおける聖書と教会」
- 阿久戸義愛「カール・バルトと近代主義」
- 須藤孝也「河上正秀『キルケゴールの実存解釈:自己と他者』書評」
第16号(2018)
- 小林弥那美「躓きとしての「罪は意志にあり」」
- 鈴木祐丞「なぜキェルケゴールは『完結の全集』のアイデアを断念したのか、あるいは、『死に至る病』の出版にこめられた意味」
- カール・ヘンリク・コック『デンマーク・イデアリズム1800-1880』第9章 セーレン・キルケゴール(3)
- 桝形公也「キェルケゴール協会2017年大会ワークショップ「キェルケゴールの単独者概念の新しい解釈」(報告)」
- 谷塚巌「「単独者」の基本理解」
- 﨑川修「福音と出会う場所」
- 中里巧「単独者概念についての新しい解釈あるいは現代的意義」
- 米澤一孝「キェルケゴールの単独者概念と社会性の問題」
第15号(2017)
- 釘宮明美「詩人的実存とキリスト教信仰」
- 木瀬康太「神学生時代のキェルケゴールにおける「自由」についての問題意識のコンテクスト」
- 後藤英樹「キェルケゴールの建徳的著作における声の文化と文字の文化について─預言者の特質とその展開可能性を求めて─」
- 中里巧「「自己生成」概念の精神史─キェルケゴール思想の固有性─」
- カール・ヘンリク・コック『デンマーク・イデアリズム1800-1880』第9章 セーレン・キルケゴール(2)
- 柳沢貴司「セーレン・キェルケゴール著、鈴木祐丞編訳『キェルケゴールの日記─哲学と信仰のあいだ─』書評」
第14号(2016)
- 藤野寛「二十世紀のキルケゴール ─ テオドール・ヘッカーとは何者か」
- 石井亮治「キェルケゴールとマックス・ピカート ─不安と決断をめぐる考察─」
- 鈴木祐丞「日記における信仰をめぐる思索のフィクション性について」
- カール・ヘンリク・コック『デンマーク・イデアリズム1800-1880』第9章 セーレン・キルケゴール(1)
- 江口聡「藤野寛『キルケゴール:美と倫理のはざまに立つ哲学』書評」
- 藤枝真「鈴木祐丞『キェルケゴールの信仰と哲学 ―生と思想の全体像を問う―』書評」
- 山内清郎「伊藤潔志『キルケゴールの教育倫理学』書評」
第13号 (2015)
- 中里巧「キェルケゴールとキリスト教正教―聖愚者と単独者―」
- 木瀬康太「キェルケゴールと内村鑑三における「信仰」と「わざ」―彼らのルター解釈との関連性をもとにして―」
- 後藤英樹「知の極限と愛の強度―キェルケゴール思想における信仰の源流を求めて―」
- 本田誠也「徳の個別化:キェルケゴールに見る徳倫理学の可能性」
- 桝形公也「内村鑑三 ―日本のキェルケゴール―」
- 南コニー「「単独的普遍者」―サルトルのキルケゴール解釈をめぐって―」
- 森田美芽「橋本淳『セーレン・キェルケゴール 北シェランの旅―<真理とは何か>―』書評」
- 米沢一孝「須藤孝也『キルケゴールと「キリスト教界」』書評」
第12号(2014)
生誕200周年記念シンポジウム「キルケゴールの魅力」:
- 鈴木祐丞「生に対する真剣さ:キェルケゴールの魅力」
- 柳沢貴司「キェルケゴールのアンチ哲学」
- 桝形公也「キェルケゴールの魅力:日本語によるキェルケゴール研究」
- 山下秀智「キェルケゴールの魅力:信仰を支える逆説弁証法」
第11号(2013)
第10号 (2012)
- 森田美芽「キェルケゴールのソクラテス論:レオ・シュトラウスとのかかわりを求めて」
- スザ・ドミンゴス「キェルケゴールの自己論:非社会的個人主義であるのか」
- 土村啓介「『イロニーの概念』のプラトン理解からみた意識の現実性」
第9号(2011)
- 中里巧「マザー=テレサとキェルケゴール:神の不在とイエスの偏在」
- 甲斐友朗「キェルケゴールにおけるキリストの倣いと隣人愛との関係」
- 土村啓介「『イロニーの概念』における全体的真理の地平」
- 八谷俊久「『不安の概念』(1844年)における「デモニスクなもの」の諸相についての社会思想史的な考察:マランツクの「不安」の分析を手掛りにして」
- 吉田敬介「ヨハンネス・クリマクスの「一断片の哲学」における断絶の弁証法」
- Domingos Sousa, “KIekregaard on the Nature of Religious Truth: Uncertainty and the Imperative of Choice”
第8号(2010)
- 花岡永子「己事究明の現象学:ニヒリズムの克服の道」
- 森田美芽「キェルケゴールの女性論:実存、他者、宗教性」
- 大西優香「キェルケゴールにおける真摯の意味:『不安の概念』の読解を中心に」
- 鈴木祐丞「『死に至る病』における「絶望の弁証法」についての考察」
- 土村啓介「キェルケゴールにおける神話と意識の問題」
- 八谷俊久「キェルケゴールにおける「真理」概念の構想:新しいキリスト教社会倫理学のために」
第7号(2009)
- 行武宏明「アンチ=クリマクスによる絶望の治療について」
- 鈴木祐丞「キェルケゴールの信仰観についての一考察:「反省のあとの直接性」とは何か」
- 八谷俊久「「まねびの類比(Analogia Imitationis)」の提唱:キェルケゴールの『キリスト教への修練』(1850年)における「神=人」の類比(アナロギア)
- 山本邦子「キェルケゴールにおける「現代」にまつわる一考察:ヘッカー、ゾフィーとともに」
- 中里巧「キェルケゴール思想研究にともなうアポリアについて:実存的思索とキリスト教の問題性」
- おわびと訂正
第6号(2008)
第5号
- 八谷俊久「「逆説」から「物語」へ—キェルケゴールにおけるキリスト教的思惟の変貌について」
- 伊藤潔志「キェルケゴールにおける自然の教育学的考察」
- 鈴木祐丞「キェルケゴールの1948年の信仰的突破について」
- ウィリアム・マクドナルド「個人から組織へ、そしてまた個人へ」
第4号
- YAMASHITA Hidetomo, “On Religious Love — Kierkegaard and Shinran”
- 森田美芽「レギーネとキェルケゴール — その関係の再考察」
- 米沢一孝「キェルケゴールにおける歌劇受容について」
第3号(2003)
- 花岡永子「キェルケゴールにおける「自己と世界」の問題
- 水田信「キェルケゴールに学ぶ—キェルケゴールと今日の我々」
- 山田衛「石津照璽のキェルケゴール論(上)」
- 田中一馬「「判定基準」から何が導き出されるのか—キェルケゴール『アズラーについての書』をめぐって」
- 本田誠也「時間性の獲得—キェルケゴールの信仰におけるエロスとアガペーの関係」
- 須藤孝也「キェルケゴール思想における倫理とキリスト教の相補性について」
- 宮田玲「創世記22章の旧的解釈と『おそれとおののき」
- 伊藤潔志「キェルケゴールにおける絶望の教育学的考察」
- 細羽嘉子「和辻哲郎のキェルケゴール理解—1910年代の和辻の著作をてがかりに」
- 研究機関紹介—セントオラフ・キェルケゴールライブラリ
第2号(2002)
- 國井哲義「レギーネと間接伝知」
- 藤枝真「「知られざるもの」について語ることは可能か — キェルケゴールと宗教の基礎づけ主義」
- 本田誠也「信仰における隣人の他性 — レヴィナスによるキェルケゴールの宗教性批判に応えて」
- 須藤孝也「キルケゴールにおける「自己愛」に関して—」
- 鶴真一「他者とのかかわりとしての言語—キェルケゴールとレヴィナス」
- ジェームズ・ジャイルズ「内面性から空性へ — キェルケゴールとヨーガチャーラ仏教」
- キェルケゴール協会会則
創刊号(2001)
- 山下秀智「無常性の克服—『神の不変性』を読む
- 川井義男「キェルケゴールとドイツ語圏文学」
- 森田美芽「キェルケゴールにおける女性と女性論の問題」
- 大利裕子「キェルケゴールにおける「苦しみ」の概念」
- 江口聡「大衆メディア批判者としてのキェルケゴール」
- スティーブン・シェイクスピア「キリスト教への修練 — 躓きの諸範疇」
- ヴァルター・R・ディーツ「新たな国際的研究の光を浴びるキェルケゴール」
- キェルケゴール協会会則